「タイタニックのクルーたち(chie's Titanic Officers)」豪華客船タイタニック(Titanic)の歴史、史実、乗組員、クルー、航海士(特にマードック航海士)機関士・設計士・通信士を紹介。自殺の謎、映画の中の航海士、コレクションなど。by智恵-ちえ-
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◆ジョセフ・グローブス・ボックスホール四等航海士◆
(Fourth Officer Joseph Grove Boxhall)

”They couldn't live in this cold water・・・”

 

 
ジョセフ・グローブス・ボックスホールは、イギリスのヨークシャー、ハルで1884年3月23日に生まれた。
1897年頃から船に乗り、リバプールのウィリアム・トーマス社で実習の後、ハルのウィルソン・ラインで航海士として 乗船勤務をした。1907年にMastre's Certificate(船長資格)を取得し、同年ホワイト・スター・ライン社へ。 タイタニックに乗船するまでの5年間のうちにExtra Mastre's Certificate(特別船長資格)を取得している。


1912年3月、’Arabic’から、タイタニックへ四等航海士として乗船する。ボックスホールは当夜は8:00pmから ムーディー六等航海士とともに当直、氷山衝突直後には最初の船内点検を命じられた。最初は特に異常な箇所が 見つかなかったが、その後クルーら(船内作業員 J・ハッチンソン、郵便係員 アイアゴ・スミス)の通報により 船内浸水が伝えられた。ボックスホールは再び点検するとともに、就寝中のライトラー二等航海士、ピットマン三等航海士 を起こし、事故を伝えた。


救命ボートでの避難誘導が行われている間、ボックスホールはタイタニックの現在位置を再計算するように 命じられた。船の位置(西経50度14分、北緯41度46分)を添えて、国際救難信号が発せられた。 彼の計算した場所は、実際の現場からは数海里はなれていたが、時間と機材が不足していたのかもしてない。 (当時は星を基準に、航路と船の速度から計算) 救助船が救命ボートを発見する程度には、正確であった。


その後、操舵員のジョージ・ロウと遭難信号のロケット照明弾を0:45amから1:20amの間に8回打ち上げている。また、この間に ボックスホールは5マイルほど離れたところに船の灯りをみつけ、船の方向に信号灯で合図を送ったが、返答は得られなかった。


ボックスホールは、救命ボート2号の監督に命じられた。
彼はボートに乗り込む時、緑色の照明弾を持ち込んでいた。
タイタニックが沈没した後に現場に引き換えそうと試みたが、乗客の反対にあい断念。
ボックスホールは、照明弾を定期的に打ちあげて、これは失神状態にある人々をいくらか元気づけた。
4:00am、現場に到着したカルパチアがボックスホールの照明弾に気付いた。 カルパチアが遭難現場から最初に救助をしたのはこの救命ボート2号である。(下記)


生還後は、アメリカおよびイギリスの査問会で証言。彼は出発前に、救命ボートのテストを行っている。 2隻のボートを水面におろし、埠頭のまわりをぐるりとまわり、再び引き上げた。
事故の1〜2日前に船長が氷山に遭遇する可能性について話し、海図に危険海域を記したが、当日の夜は 誰も氷山という言葉を口にしていなかった、と証言した。


ボックスホールは、その後の大戦で英国海軍予備役として船の指揮官となったが、ライトラーら他の生還した航海士同様、 客船で自らの船を指揮することはなかった。昇進の望みも、1930年代には薄れていった。 吸収・合併したキューナード社の’Ausonia’で航海士長を勤めたあと、彼は退職した。




1955年にタイタニックの小説「A Night To Remember」(ウォルター・ロード、小説邦題『タイタニック号の最後』)が発表され、ベストセラーとなった。 これがきっかけで1958年映画化され、ボックスホールはテクニカル・アドバイザーとして参加した。 (映画邦題『SOSタイタニック』ビデオレンタル中)


1967年4月25日 没。火葬された彼の遺骨は、遺書にしたがって彼があの夜タイタニックの事故現場として計算した位置、 西経50度14分、北緯41度46分に6月12日に葬られた。享年83歳。








生年月日:1884年3月23日生まれ。
事故当時:28歳。生還。
出身:英国 Hull、(ヨークシャー)
給与:9.00.00ポンド/月
資格:英国海軍予備役 中佐
履歴:
1897年頃〜 見習い乗船勤務 ウィリアム・トーマス社(リバプール)
      ウィルソン・ライン社(ハル)航海士
1907年   Mastre's Certificate(船長資格)取得
1907年〜  ホワイト・スター・ライン社へ
 1912年  Extra Mastre's Certificate(特別船長資格)取得
     ’Arabic’
1912年3月 ’Titanic’(四等航海士)
   5月 事故後の査問会(アメリカ及びイギリス)
 以降  ’Ausonia’(キューナード社、航海士長)
      英国海軍予備役、中佐
1940年  引退
1958年  映画「A Night To Remember」(映画邦題『SOSタイタニック』)にテクニカル・アドバイザーとして参加。
1967年4月25日 没。享年83歳。






救出後、カルパチアのブリッジにてロストロン船長と。
ロストロン「タイタニックは沈没したんだね。」
ボックスホール「そうです・・・」彼の声が途切れた。「二時半ごろ沈没しました・・・」
ロストロン「沈没した時どれほどの人が船に残っていたのかね。」
ボックスホールは耐え切れずに叫んだ。
「なん百人もです!!! 千人かもしれない、きっと千人以上の人が、タイタニックとともに沈んでしまったのです!!!  ・・・あぁ、神よ・・・船長、彼らはあんなに冷たい水の中では生きてはいけない(They couldn't live in this cold water)・・・」
(An Illustrated Hisrotyより)












Photo credits
; April Prichard & Aurora Brynn "Titanic Heroes";<参考文献>


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